教育とは何か。

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2011-03-09 教育とは何か。

日本国憲法と教育基本法を紐解けば、格好が良く耳触りの良い、答えらしき言葉の羅列を
見付け出すことが出来ます、と申しますか、答えはそこ以外には存在しないように思います。
「民主的で文化的な国家を建設し、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする理想を実現
するために、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期すると共に、
普遍的にして、しかも、個性豊かな文化の創造を目指す教育を、普及徹底しなければならない。」
この難解な表現が、理解出来ようと出来まいと、教育というものの、一応の方向性を、ここに
指し示すことが出来ているのではないでしょうか。
世間には、「固定した考えはナンセンスである」との意見もありますが、個人レベルにおいて、
固定的で一方的な考え方を持つことは、特にそれが社会正義に反しない限りであれば、
例えそれが、どのような考え方であったとしても、誰も異存は無いところではないでしょうか。
それに対して、「どのような考え方をしようが、個人の自由であって、例えば、社会正義に
反するような考え方を、持つようになったとしても、それはそれで良いではないか」とか、
「社会正義とは一体何だ、そして、それは誰が判断するのか」などの問い掛けは、当該話をより
一層複雑にしてしまいますので、ここでは割愛させて頂くとして、自分の考え方を他人に押し付ける
ような、そのような不遜な行為が、そもそも出来る訳も無く、また、他人の考え方に触れた瞬間に、
簡単に感化されてしまうというほど、人間の思考というものは柔ではない筈です。
固定した考え方に対して、いちいち攻撃を加えずにはいられないのであれば、本や新聞、雑誌はおろか、
およそ人間の考え方というものに、人間は、一切触れられないことになってしまいます。
それとも、自分と違った考え方の存在を許さず、各個個別に駆逐し尽くすことが目的でしょうか。
そうなれば、他の考え方に対して攻撃を加えるばかりが、自分の人生となってしまいます。
他人の考え方は、それはそれとして、尊重して上げれば良いのではないでしょうか。
同じように、国家が決めている教育の理念も、それはそれとして尊重した上で、自分が教育を
どのように捉えるかは、また別の話、まったくの自由です。
自らの考え方は、自らが一番よく知るところなのですが、これが他人となってしまうと、当たり前のことですが、
全く何を考えているのか掴み所がありません。
これはもう、凡庸なようですが、「自分は自分、他人は他人」と、言ってしまう外は無く、人それぞれに、
また、それぞれの考え方があるということは、ここで改めて言うまでもなく当たり前過ぎることであって、
それを外に向けて発信した場合は、人々の眼に触れ、知られるようになり、議論されるようになるのです。
ちょっと大袈裟かもしれませんが、教育の理念と同じように、個人も理念を掲げているようなものなのです。
固定的考え方を持つことと、「固定した考えはナンセンス」との考え方は、相互不可侵、かつ、相互尊重の
関係にあり、違うプラットフォームから出発した列車のように、互いに交わること無く、並走するのです。
国家が教育の理念を掲げることに関しては、「然(さ)も有りなん」と思うのですが、個人が自らの考え方を
しっかりと掲げることは、実際、持っている人も、持っていない人も両方居て、持っていない人にとっては、
自分の考え方を持つということが、どういうものなのかピンと来ないし、感覚が掴めないと言うか、想像が出来ないし、
持っている人にとっては、持っていないことが信じられないのです。

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